そこさえ舐めてりゃいいってもンじゃねぇ!

そろそろブログを閉鎖します

腰振りながらセックスなんてしたくないヨと男は考えてる恐ろしい映画だったヨ「SHAME/シェイム(18禁)」

シェイム」(2011)

 


面白かった。特に、罰されたいと思っている男性の様子が描かれていたこと。

とはいえ、そんな映画はよくある。完璧だがどこか物足りなさを感じている主人公。平穏な日常を破壊してくる自由奔放な人間が殴り合おうぜと現れたり、ときには異世界に跳んでみたり、天空から女がビヨーンと降ってきたり。この映画にそれはない。現実の私たちの生活はそんなもんだ。

ハッキリ言ってしまえば、この映画の主人公にハプニングが起こらない。起こしてくれる誰かもいない。

主人公のブランドンはエリートサラリーマン。彼はモテる。セックスしまくる。課長島耕作である。電車で目が会った女性、飲み屋で会った女性、会社の同僚、コールガールを家に呼んだりもする。

ここまでならまあセックスが好きなんだなあで終わり。ところが彼は会社でも自宅でもポルノ映像を見る。むっちゃ見る。無表情で見ている。あるとき会社の同僚と真面目にデートして珍しく他人と仲良くなれたブランドンだった。後日、仲良くなったその彼女とセックスしようとする。

なぜかこの時だけ勃起できなかった。何かがおかしい。彼はセックス好きなどではなかった。満たされなさをセックスで埋める。彼にはそれ以上の何かがあるように私には思えた。

物語後半。彼はゲイクラブに吸い込まれる。ゲイとセックスする。そうか、本当は同性愛者だったのを彼は自分で抑圧していたんだ!ところが彼はその後に女性二人と3Pをする。えー!この作品は同性愛者だった自分の発見という着地を許さない。

ラストは妹が自殺未遂をする。これにショックを受ける。その場で一人泣き崩れる。感情をハルマゲドンして叫ぶ。

彼の闇のありどころは最後まで描かれない。妹とのやりとりを見ているとこの兄妹には秘密の何かがあると思わせる。両親との関係に何かがあったのだろうか。それは描かれない。

この映画にあるのはブランドンが何かを抱えているということ。セックスで紛らわせているがセックスで解消できない何かであるということだ。

私が気になったのは物語後半の3Pシーン。バックで女性をバシバシ突いているブランドン。その顔が苦心している。まるでやるせないという顔。しまいに腰は動き続けているものの次第にスーッと冷静な表情に変化する。そしてカメラ目線になりこちらに顔を向ける。怖い。

私が感じたのはこうだ。彼は自分自身を罰したいのだと。でもそれができない。罰することしかできない。セックスは他人に自分をあけ渡すもの。行為の性質上、男性が突く側であり女性は突かれる側になる。彼は罰する側にしかなれない。いくらセックスをしても。女性の後ろから腰を何度も何度も振りながら苦心した顔と冷たい表情。罰されたいのに罰するしかできない。当の女はそんな表情を見ない。そんな事を考えない。考えてもみない。男が本当はセックスなんてしたくない事をセックスをしながら考えていることを彼女たちは女知らない。

彼はセックスの中で自分を罰したいけれど男性である身体がそれを許さない。社会も許さなければ女性も許さない (というか女性はそんな心理が男性あるなんて考えたくもないし知りたくもないだろう。男性もそんな事を明かしたら男性として終わりだと思ってるし、言わないし言えないえないわよね)。この映画は男性が男性性のなかで永久に自家中毒を起こす様子をよく描いたなと思った。

彼が救済されることはない。劇中で何かしら日常がブッ壊れるようなラブハプニングが起こらない。外から自分を変えてくれる何かは起こらない。かといって自分で何かを起こす事もできない。そんな現実のドン詰まりを描いていて私は好きな映画だった。

最後に気に入ったセリフを一つ。「私たちは悪い人間じゃない。生まれた場所が悪かっただけ」

 

 

音楽:ハリー・エスコット
撮影:ショーン・ボビット
作品名「SHAME」2011年イギリス公開