そこさえ舐めてりゃいいってもンじゃねぇ!

そろそろブログを閉鎖します

作家って意外と人間のことを分かってないのかもね!!

ほむほむこと穂村弘の対談本を読んだ。この時代で、ただ一人だけ女性作家から好かれている男性。それがほむほむである。短歌界の星野源といったら分かりやすい。彼が対談その相手が作家の文月悠光。

 

彼女はその中で言う。書いてあるものを書いてある通りに受け取る人が多すぎるのだと。

 

(文月)エッセイを書いてみて驚いたのが、これを「表現」と捉える人の少なさです。もちろん、なかにはそういうふうに読んでくださる方もいましたが、個別性のほうに意識を引っ張られてしまう人が、思いのほか多かった印象があります。ある体験を書いたテキストと、私の体験との間にある距離を読者にどう示すのか、その難しさを日々痛感しています。

 

文月は言う。書いてあるものを実際の私の事だと思い過ぎる人が多いのだと。私はこれに「まじかー」と思った。エッセイという形式をとっているんだから普通そうなんじゃないのか。私の周りに起こったあれこれ、私が思ったあれこれが書かれていると思い込むよ。少なくとも私はな。人の直感はそういうものでしょう。料理本を出しながら私はこの料理を好んでると思うなよって言ってるようなものだ。たとえそうだったとしても、料理を生業にしてる人が本人名義で書いてるんだから読んだ人は料理を信じるじゃん。

いずれにしろ、作家がここまで受け手に鈍感なのかと驚いた。

 

ここでほむほむは応答する。

(穂村)エッセイのようなジャンルは、敷居が低いから多くの人に伝わるという良い側面もあるけれども、一方で「書かれたもの」と現実とが安易に混同されやすい。例えば子猫の写真があるとします。このときに「オスですか?メスですか?」「種類は?」というような質問しか出なかったとしたら、それはおかしなことだと思うんです。だって、写真集は「作品」なのですから。極端なことを言えば、被写体がどういう猫であるかは別に問題にする必要がない。大事なのは、その写真を撮ったカメラマンの「眼差し」です。けれども、猫とかアイドルとか、被写体に魅力があったり、ファン心理が動くような対象であればあるほど、受け手の意識は「表現」に向かないんですよね。

(文月)被写体自体にしか関心が向かない、と。

(穂村)でも、本当に優れた写真家が撮ったら、まるで猫らしくない猫の表情を捉えることができたり、アイドルだって、過去に見せたことのないドキリとするような一瞬の表情を切りとれるかもしれない。それこそが「表現」であって、本当はそこも見るべきだと思うんです。まあ、受け取られ方にはジャンル差があって、画集なら、そこまで現実の猫の話だけにはなりにくいみたいです。絵の方が、どう描かれているかというまなざしやタッチに意識が向きやすいのかな。

 

私のパッと読んだ印象はほむほむは文月批判をしてる。もちろん、彼は文月に寄りそっている。エッセイは「表現」なんだから書いた本人と切り離して受け取って欲しいものですねと言っている。ところが、後半はそのジャンルで人の受け取り方は変わってきますよね。遠まわしに「エッセイなんてものは書かれたものと本人をダブらせるもんじゃん」と指摘している。

 

っって、別に有名人でも芸能人でも私はないのでさらに少し書きとめておこう。

 

けっこう読んでて驚いた。作家の人たちは、書かれたものと書いた本人を重ねるってどーかしてんじゃねえかって受け手に思っていることだ。もちろん、作家の願望としてあるだろうな。私の思いの通りに受け取って欲しい。

ただ、受け手は作家の思うとおりになるロボットじゃない。彼ら彼女らの都合の良いものではない。

なんか作家って意外と受け手に寄りそってないんだなあと思った。

【ラジオ100個聴いて気がついた】お笑い芸人のラジオって、意外と・・・面白くないぞ??

「お笑い芸人のラジオは面白い」私もツイキャスをやり始めてここ一年ほど声優やお笑い芸人のラジオを聴いてきた。

その中で最近気がついた。

あれ?芸人って面白くないかも?と思った。

うーん、信じられないよな。私も実はそうなんだ。だってサァ、特にラジオは芸人の真骨頂といってもいい。テレビでイマイチでもラジオを聴くと目が天ぷらに揚がるくらいオモロいから。

こうした。原始人になった、その気持ちでラジオを聴いてみる。

なるほど芸人仲間の話題が多い。とにかく多い。私たちも知っている芸人たち。さらによく原始人の眼で聴いてみる。意外に笑える話でもなかった。

いやいや!俺の聴いてる芸人のラジオは面白いぞ。お前の聴いたものがたまたま悪かっただけだ。耳が腐ってるんじゃねえのか。そうかも。

試しに今年のM-1決勝進出のコンビのラジオを聴いてみる。好きでもないコンビのラジオの方がいいな。ネタすら見たことない芸人がもっといいよな。よし、聴いてみよ!

……全然面白くない。

 

え、じゃあ「面白い」って何なの?

 

ここで話をひっくり返える。でもさァ、やっぱり面白いような感じする。いやいや話されている中身はとくだん面白くないんだ。でも面白いような感じがする…

なんで?なんで?お笑い芸人のラジオが面白いような印象を私たちはもってしまうのか

最近やっと分かった。

 

私たちがその芸人を「知っている」だからだ。

 

例えば、芸人がエピソードトーク。本当に面白い話ならばリスナーが名前も聞いたこともない人間を登場させてもいい。ほぼそういう話はない。元テレビ東京の佐久間のラジオは人気だ。ただ彼ならサラリーマン時代の人間関係のエピソードはいくらでもあるはずだ。しかし芸人共演エピソードや裏話が多い。私たちは、知っている芸人の名前がそこに出るから「面白い!」「佐久間さん話が上手い!」と錯覚しているのではないか。

こういえばイメージしやすい。遠いアルゼンチンの恋バナより、クラスメイトの恋バナ話のほうが笑えそう。モノマネ芸人をテレビで見るより、クラスメイトが担任の先生のクセをモノマネした方がオモロい。

 

『恋するポルノグラフィティ』という映画がある。家賃が払えなくなった主人公。あるとき高校の同窓会に出た。同級生が今どうなったかが気になったのだ。そしてひらめいた。俺がポルノ男優になればクラスメイトは絶対に俺のポルノビデオを買うはずだ。だって、知らない奴のポルノは興味ない。でも知り合いのポルノは気になる!といってアダルトビデオを作り始める。つまり、人が面白味を感じるのは「自分がその人を知ってること」である。

 

お笑い芸人が話すエピソード。私たちの知ってるテレビ番組のこと。テレビの芸人のこと。私たちが知っている人だ。だから面白く感じるのだ。

また、その芸人のラジオを聴いてること自体その芸人に一定以上の興味があるわけだ。好きな人が喋っているんだからそれだけでもう楽しい。声優がただ笑いのない普通の喋りをしているだけでもう聴いてて幸せ!と感じるのと似ている。

もちろん、芸人もうちのマネージャーがだとか高校の同級生がウンヌンカンヌンといった話をする場合もある。私たちの知らない人間や。だたし、彼らがそういった話をする場合は一段ギアを入れたオチで笑えるようなしっかりしたエピソードになっている場合が多い。

知られてる人間が登場するなら話はゆるくてもいい。知られていない人間が登場するならオチはしっかり必要だ

 

つまり、私たちがラジオでお笑い芸人は面白い。そう感じているのはウソだ。つーか、バイアスというのか。知っている名前が出るから面白いような気がしてしまうのだ。本当はそんなに面白い話はしていない。

 

だからダメだという事ではない。これは希望だ。お笑い芸人が人を笑わすことができるのは特別な才能ではないということ。知られていることによって面白味を獲得しているのだ。

千鳥がナイツのラジオでこう言っていた。最初の頃はステージに出ても全然ウケなかった。漫才というよりゆるゆるなダベりをしていたそうだ。ある大先輩のステージを見たとき自分たちと同じような事をやってウケていたらしい。これは何だ?と考えたら、よく知ってる顔だからだと気がついた。自分たちの芸風を変える気のなかった彼らは「顔が知られること」でウケると信じてテレビに意識的に出るようになった。顔が知られるようになった頃お笑いステージで再びダベり芸をしたらウケるようになったという。

お笑いの「技術」があるからウケるというわけではない。人から認知されることも相当にデカイ。なみじ感はお笑いにとってクソデカなアドバンテージなのだ。

 

「お笑い芸人」って私たちが考えるほど面白くない。私たちが考えるほど特別な才能を芸人がみんな持っているわけではないのだ。

 

(逆にいえば、リスナーがまったく知らない人間が登場するエピソードトークならその芸人は技術がある。芸の腕をかけて勝負してると思っていい。

強みのある声を出すには? 「お尻で椅子の座面を踏みつけることを意識してみる」ってマジや!?

朗読指導者の本を読んだ。オモロかった。特に声には5種類。え、マジ?

声は①大小②高低③長短④軽重⑤強弱 があるという。

その中でも重要なのは声の強さだと筆者。声の表現力は強弱らしい。こうある。「強さ」は思いの強さの表現であるが、「弱さ」は思いの弱さだけではなく強さとの対比で繊細な思いを表現することができるという。

むむむー!強弱は意識してなかった。せいぜい大小と高低くらいやん。

またこれはオモロしかった。椅子に座った状態。強みのある声を出すには? お尻で椅子の座面を踏みつけることを意識してみること。背筋を軽め伸ばすようにして、腰の力を座面に押しつける。そして声を出してみ。身体の重みが声にのっかる感じがするやろ。ああ!ほんとや。すげえじゃんけえ。たぶん、座面に意識がいってるから余分な力が抜ける。抜けてるのに声が「ドシン!」と出るのがオモロい。自分の身体を自分でコントロールしない。コントロール権を半分だけ手離すって感覚。そっちの方が自分のポテンシャルが出る。ブリーチの一護が仮面に自分をあずけた方が強かったみたいな。

 

『声を鍛える』(2017/渡辺知明)

ぼっち・ざ・ろっくの四人は慣れ合わない関係だった

『ぼっち・ぼ・ろっく』の11話を観た。なんてこった。最終回が見えてきたやん。あと148時間を切った。珍しく波乱がなかった。平和的な11話だった。

雑誌を読んだ。監督のインタビューが興味深かった。こう言っていた。原作マンガを読んだとき彼女たちは慣れ合わない。お互いの距離を保っている。こういうマンガでちょっと珍しい気がしたのだと。

たしかに!もちろん前回の話では四人で江の島へ向かった。ここで完全に慣れ合った。ただ、目立った慣れ合いはこの回だけ。友達関係ではあるけれどお互いの生活圏に踏み込まない。そこが私も印象的だった。

ある回で金髪は夕食の準備してる。青髪は1人カフェめぐり。赤髪は友達と遊んでる。後藤ひとりは家で倒れてる。それぞれの距離感を保ってるやん。

これが20年代ティーンアニメか。

BORUTOがアームズみたいなナノマシン話に変わってたんだが!!!

NARUTOの続編「BORUTO」を1万年ぶりに読んだ。これマジか。え!?そうなん。

っつーのも、アームズやん。腕がビヨーンしてた。ボルトの男の子ライバルいたよね。あの暗い不良っつーの。アイツの腕が強いわけ。忍術よりも強いやん。

あと、いつから人造人間とのバトル漫画にスピンバイパーしたん。ドラゴンボールやん。人造人間編ってやつ。科学vs魔法になっとる。どこかのインデックスや。

実は私はナルトが好きでな。一度も脱落せんかってん。最初から最後まで読んだ人間やん。ボルトが始まったときはワクワクやった。一話で木の葉の里がブッ壊れてたやん。どんなデスボール撃ったんや。

まだまだ連載終わる気配ないね。人気ってことか。しかも新キャラ全然出てくるやん。ギャルみたいな女が爆誕してた。まだ連載伸ばすってことやん。あと10年続くやろ。

NARUTOの余生っつーか。お気楽にそれ楽しむ。ありがたいことやで。彼らがまだ動いてる。それが大事やん。終わってしまったらそれっきり!なんて当たり前じゃん。読者としてはもうありがたいわけよ。余生あざーっす!っていうな。

鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。/『演劇入門』(鴻上尚史)もまさに金言の宝庫

鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。声優の鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。何者であるかより、何をしているか。私が思い出したのは漫画『かくかくしかじか』の「とりあえず描け」だ。行動こそものの本質。

表現をしている人は金言が多い。

最近読んだ本『演劇入門』(鴻上尚史)もまさに金言の宝庫だった。

「演劇は人生そのもの」という言葉から始まった。作者が言うには「演劇は情報量において膨大で、意味において曖昧である」という。登場人物の正確な内面は演劇では分からない。例えば、女性を映画に誘ったときの役者の姿をみて「情けない声になってもう死にたくなってるぞ」と感じた客がいて、「自分をほめてやりたい気持ちなんだな」と感じた客がいて、「この女性が好きなんだな。好き過ぎて声が震えているんだな」と感じる客がいるかもしれない。その時、その瞬間、登場人物の正確な内面は、演劇では分からない。もちろん演者側には内面の把握がある。これが、小説の場合だと、「なんて情けない声だと神田は死にたくなった。それでも、やっと自分をほめてやりたい気持ちになった」と内面が書かれる。演劇は、小説と比べて情報量としては圧倒的だけど、伝える意味として曖昧というわけだ。まさに私たちが生きるそのものだと作者は言う。

さらに続く。ならば映像は何か?映像は小説と演劇の中間だという。何を映して何を映さないかを選択することで限定した意味を伝える。映す部分をコントロールすることで、この人は何かを感じていますよと観客に教えることができる。かといって、内面を雄弁に語れるわけでもないので小説とは違う。ナレーションといった裏技みたいなものがあるけれど、それも使いようで、画面に映る役者が悲しい顔をしているときに「この時に悲しいと思った」ナレーションをしてしまえば、観客は興ざめしてしまうという。逆に、悲しい表情のとき「嬉しい気持ちだった」とナレーションが入れれば、観客は「ファ!?」と思うわけだが。

演劇は製作人が舞台の上に「ある空間」を用意する。どこを見るかは観客が選べる。オープンワールドのゲーム的。映像は空間と視点と「時間」を用意される。それを観客は楽しむ。小説は敷かれた一本道を突き進む。

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだらラブホはモノが消えがちなことを思い出した!!!!!!

若い方が素晴らしいなんて錯覚じゃないか。ときどき思う。ティーンはヤバイ。目に写るものすべて敵。ドラグスレイブ撃ち放ったろか?殺意の波動を出しながら千里の道も一歩からやで!

ときどき思い出す。なんか、学生の頃ってヘンな風になっちゃう。同じ失敗はもうしないぞー!天空に誓って、誓った傍から木っ端みじんになって。傷だらけの天使!チックショー。振り向くなアムロ

人は不思議だ。うっかり自分のキズを忘れる。

最近読んだ。桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』。除骨から心臓をえぐり取って見せたような小説だった。

美人の転校生の海野藻屑(うみのもくず)。彼女は嘘をつく。バレバレの嘘をつく。私は人魚なんだよ?目の前から消えることができるよ?とか。それを聞く山田なぎさ。「はあ…?」と言った。

山田なぎさは兄に相談する。嘘をつくクラスメイト。そうか、それは砂糖菓子の弾丸だな。砂糖菓子の??そう、なぎさは実弾を必要としてる。それは世の中にコミットする、直線的な力、実体のある力だ。その子が撃ってるのは空想的弾丸だ。彼女はそうじゃない?

物語の中盤だった。海野藻屑は野球部の男子に殴られる。馬乗りになられて顔をボコボコ。壊れた人形のように四肢をだらりさせる。彼女は抵抗しない。

藻屑はこの波が終わるのを待っているらしい。抵抗して逃げるのではなく、花名島の気が済んで、自然に手を止める時を待っているのだ。暴力にいつか終わりがあることを藻屑は知っている。そして終わらなければ死ぬだけだと達観。―――いや、あきらめているんだ。

後半に明かされた。彼女は父親から暴力を受けていた。彼女は父親が好きだった。好きだった。そしてナタでバラバラにされた。サイコロリンにされて彼女。

暴力をする父親だよ。それは酷いよ。やめなよ。そんなお父さん好きなんておかしいよ。

一方、山田なぎさは考える。彼女がバレバレな嘘をついていたこと。皆を困らせていたこと。砂糖菓子の弾丸を撃っていたこと。田舎の中学卒業したら自分はさっさと自衛隊に入ると決めていたこと。家族の生活だけ考えてたこと。実弾を必要としていた自分こそ全てをあきらめていたことを。そして彼女こそ生き抜いていたことを。

結果的に海野藻屑は超究武神破斬された。殴られても父親。父親を選んだ彼女。父親が好きだった。それは間違っていたか。もちろん間違っていた。そう大人は言う。でもさ、違うンじゃねーの?彼女が最後まで信じていたもの。いや、信じたかったもの。それを否定してしまえば彼女を否定することになる。

「いいよ、ずっと待ってるから」

私はバラマイケルになった海野藻屑にできる最終回答はこれしかない。何を待っているか私も分からない。何のことを言ってるか私も分からない。彼女にあーしろとかこーしろとか。同情も違う。読み終わったときにそう思った。

ずっと待ってるからねと思った。ある日、ウンコをしながら気がついた。私はいつかの私にこれ言ってるんだ!でも一体いつの時代の自分に言ってるンだろう?すっかり思い出せない。思い出せないンじゃあ君は嘘つきだよね?でもゼッタイ私は私に言ってるンだもん!嘘じゃないもん。あっ。

人は自分のキズをウッカリ忘れる。皮膚が上から覆い隠す。隠したのか隠れたのかも分からなくなる。忘れる。いずれ忘れたことも忘れる。ンでもさ、頭で忘れるけど身体は覚えている。覚えていてくれる。だから私たちは忘れたっていいんだ。思いっきり忘れていいんだよ。身体はとっても頭が良い。