そこさえ舐めてりゃいいってもンじゃねぇ!

そろそろブログを閉鎖します

鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。/『演劇入門』(鴻上尚史)もまさに金言の宝庫

鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。声優の鈴村健一大先生とツダケン氏が「絵描きになろうとする奴は絵描きになれない。絵を描きたい奴が絵描きになるんだ」と言っていた。何者であるかより、何をしているか。私が思い出したのは漫画『かくかくしかじか』の「とりあえず描け」だ。行動こそものの本質。

表現をしている人は金言が多い。

最近読んだ本『演劇入門』(鴻上尚史)もまさに金言の宝庫だった。

「演劇は人生そのもの」という言葉から始まった。作者が言うには「演劇は情報量において膨大で、意味において曖昧である」という。登場人物の正確な内面は演劇では分からない。例えば、女性を映画に誘ったときの役者の姿をみて「情けない声になってもう死にたくなってるぞ」と感じた客がいて、「自分をほめてやりたい気持ちなんだな」と感じた客がいて、「この女性が好きなんだな。好き過ぎて声が震えているんだな」と感じる客がいるかもしれない。その時、その瞬間、登場人物の正確な内面は、演劇では分からない。もちろん演者側には内面の把握がある。これが、小説の場合だと、「なんて情けない声だと神田は死にたくなった。それでも、やっと自分をほめてやりたい気持ちになった」と内面が書かれる。演劇は、小説と比べて情報量としては圧倒的だけど、伝える意味として曖昧というわけだ。まさに私たちが生きるそのものだと作者は言う。

さらに続く。ならば映像は何か?映像は小説と演劇の中間だという。何を映して何を映さないかを選択することで限定した意味を伝える。映す部分をコントロールすることで、この人は何かを感じていますよと観客に教えることができる。かといって、内面を雄弁に語れるわけでもないので小説とは違う。ナレーションといった裏技みたいなものがあるけれど、それも使いようで、画面に映る役者が悲しい顔をしているときに「この時に悲しいと思った」ナレーションをしてしまえば、観客は興ざめしてしまうという。逆に、悲しい表情のとき「嬉しい気持ちだった」とナレーションが入れれば、観客は「ファ!?」と思うわけだが。

演劇は製作人が舞台の上に「ある空間」を用意する。どこを見るかは観客が選べる。オープンワールドのゲーム的。映像は空間と視点と「時間」を用意される。それを観客は楽しむ。小説は敷かれた一本道を突き進む。