そこさえ舐めてりゃいいってもンじゃねぇ!

そろそろブログを閉鎖します

肉のついた天使が降臨した感動を伝えたい!!!「生きていてごめんなさい」と思ってしまっている全ての人々へ【輪るピングドラム後編(映画)の追加シーンで号泣した!10年前の元視聴者のワイしかわからんやろこの気持ち】

充実した人生を送りたい、いや人生というのはなんだかイメージしづらいけど。充実した生活を送りたい、と言えば、多くの人はなんとなくそう思っているのではないだろうか。

劇場版ピングドラム後編ヤバかった!!!!!!

当時TV版を観てたなら死ぬほど大号泣する。平たくいえば、10年経ってピングドラムをまだ見つけてない。人生詰んだままの人間にヒーリングエスカレーションする映画だった!

まずTVシリーズの最終回。現実改変パワーイザナミが使われて爆弾は止まる。タブキとユリが中合わせに会話をする。

タブキ「君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。でも世界中のほとんどの子供たちは僕らといっしょだよ。だからたった一度でもいい。誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」

ユリ「たとえ運命がすべてを奪っても。愛された子供はきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために、世界に残されたのね…」

タブキ「愛してるよ」

ユリ「愛してるわ」

作中、登場人物たちが欲していたのは「愛」だ。タブキとユリは親から愛を与えられた。しかし親はそれを取り上げてしまった。モモカは二人に愛を与えた。メギドしたモモカ。愛は再び失われた。

二人にとって「愛」とはモモカそのものだった。だからピングドラムを使おうとした。モモカを死者蘇生させようとした。失った愛を取り戻そうとした。愛をとりもどせ

ところが最終回で二人は気づく。

愛は失われていなかった。自分たちのような子供に「愛してるよ」と言えばその子供にとってタブキやユリの存在はモモカだ。

自分たちがモモカになる。「愛してるよ」の言葉それ自体がモモカだった。彼女に会える方法だった。口に出せばいつでも呼び出せた。彼女が生きてたことを証明できる。実はいつも傍にいた。お前はここにいたんだなsai!

登場人物が物語のなかで救済される。それを私たちはテレビ越しに見る。勝手にメッセージを受けとって勝手に感動する。それでいいのだ。それがいいのだ。

10年後に公開された劇場版はなんと追加シーンが用意されていた。

上記の二人の会話の直後。それは不意打ちだった。

突然に夕日の海辺が映る。「え!?なんだこの隠しステージは…」ヒマリとカンバとショウマがちびっ子になってキャッキャウフフ遊んでる。するとタブキとユリもちびっ子形態でスマブラ参戦してきた。モモカもリンゴも飢狼伝説の軸移動で入ってきた。みんな子供である。

次の瞬間、クルっと皆の目がカメラの正面を向く。

なんかこっち振り向いてきたァァ!!?

映画館にいる観客の私たちを彼ら彼女らがジッと見てるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛してるよ」

 

 

 

 

うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん(涙)

それからはもう記憶にございません。

次元の壁を突破「愛してるよ」と言って来た

「愛してる」の重要性が描かれる。それが2011年のTVシリーズ。登場人物たちは物語の中で「愛してる」を交換する。当時ブラウン管越しに見た私たち。生きていける何かを掴んだ気がした。

そして10年後経った。劇場版ピングドラムを映画館にまで観に来るようなやつはどういう連中か。まだ人生報われてない奴らに決まってる。そんな人生困ったちゃんたちが劇場に集まってる。

タブキとユリが、

「愛された子供はきっと幸せを見つけられる。愛してるの一言をあげるんだ。私たちはそれをするために、世界に残された。」

と言った直後に、それを私たちに言ってくれるんⅮ奈からああwれtjrgwjゴアgwgじゃヴぃwrvんg

映画ピンドラって晶馬を救うための話だった事に気が付いた件

『劇場版 輪るピングドラム 後編』を観た。

私の人生でベスト級に良かっーた!

特に、ED後のおまけ映像。晶馬「あっちへ行こう!」が素晴らしかった。

ああー!!ピンドラって晶馬の話だったんだ?!!

 

今思えばなんだけど。最後まで晶馬って自分のために生きてなかったんだよね。TV版のラストはこうなる。冠葉は陽毬を救うために動く。妹の陽毬は彼を止めるために動く。晶馬は爆弾テロを止めるために動く。

実は冠葉も陽毬も最終回を待たずに親の罪から解放されている。愛する者のためだけに動いている。自分の思うまま。親がどうとか言っていない。世界がどうとか言ってない。自分の個人的な想いだけで動いている。

一方、晶馬は乗客を救うために動いている。

親の起こした事件を今度は防ぐため。晶馬が親の罪を最後に償った。最終話に必要なことだった。だからこそ全体を通せば見えてきた。彼だけが本当の意味で親から解放されてはいなかった。

劇場版ピンドラではTV版と同じく「運命の乗り換え」を起こす。平たくいうと、現実改変の魔法だ。電車に仕掛けられた爆弾が爆発しない。再編される世界。晶馬と冠葉は別の親の子供として転生する。ここでTV版は終わりである。

ところが劇場版ではエンドロール後に映像が始まる。水族館にいるチビ晶馬とチビ冠葉である。冠葉はどっち行く?と言う。晶馬は答える。

 

「あっちへ行こう!」

 

今度は誰のためでもなかった。自分で自分の行きたい場所を選んだ。親の罪から本当の意味で解放された。

 

TV版のとき晶馬とほぼ同年代だった私。今では社会の歯車。大人ブロイラーってやつがあるならガリガリすり潰されてる。そんな人は私以外にもきっと多いだろう。

だからこそ最後の晶馬のセリフは胸に太い丸太ブっ刺さった。晶馬、アンタはアンタを生きるのよ!!!

客電が点いたとき頬が濡れていた。晶馬が解放されて本当に嬉しくなった。映画館のトイレで私はオイオイ泣いてしまった。本当に良かった。そして多分、もう晶馬はこちらを振り向かないのだ。そんな切なさも感じたのはここだけの話だ。

ピングドラム使わないまま中年になっちゃった話が『ベイビーブローカー』

笑顔の素敵な人、というのに憧れます。笑い顔の清々しい人というのは、接しているこちらも大変気持ちが良い。美人だとか可愛いだとかは、この場合あまり関係がありません。顔面の作りより、表情から出るガハハーという愛嬌は身を助ける。

笑顔の上手い下手というのはある。パッと瞬間的に笑顔になれる人がいる一方で、笑うと顔が引きつってスポポビッチになってしまう私がいる。気持ちや喜びがなかなか伝わらない。

日『ベイビーブローカー』という映画を観ました。特に面白かったのは、いい歳の大人が「俺って生まれて来なければ良かったんじゃないか?」って思ってるってこと。ああ、なんだ『輪るピングドラム』で廻らなかった人たちの話なんだな。

そうです。高倉冠葉(赤髪)と高倉晶馬(青髪)が運命の乗り換えしないまま中年になっちゃった話が『ベイビーブローカー』なんだ。なかなかヤバイなあと映画館で頭を抱えた。

捨てられた赤ちゃんを売り飛ばしてる男。中年のサンヒョン(ソン・ガンホ)はギャンブルの借金を返すために孤児をブローカーをする。「余計な法手続きなしで里親に引き合わせてるんだから俺は恋のキューピットやで♪」と陽気に言う。アホな気の良いおじさんだ。

それは旅の終盤だった。里親が見つかってホテルで安堵する一行。言葉遊びのようなノリがあった。彼女は就寝前に同行する皆に暗闇の中で小さな声で言う。「生まれて来てくれて、ありがとう」。彼はそれを聞いて激しく動揺する。目がうろたえてる。自分の中からこみ上げてくる感情に言葉を失う。

中年サンヒョン。後半で明らかになるのは彼は昔結婚していた。元の奥さんと小学生の娘ともう一度一緒に暮らすことを望んでいた。旅の途中で娘に面会した。もう借金は返し終わるんだ。娘はため息をする。お母さんは再婚予定だし、実は私もお父さんに会いたくない。

彼は孤児になった。繋がりは断たれた。血の繋がりにあっけない。自分が生きてることを望まれていなかった。生まれてきた意味なんてなかった。孤児を売買するはずの中年ブローカーは孤児になった。

物語の最後。優しい里親が見つかった。赤ちゃんをついに里親に渡す直前だった。信号で若いヤクザが声をかけてきた。これはヤバい。継母(赤ちゃんの父親の母。つまりおばあちゃん)はマフィアを雇っていた。赤ちゃんを財閥の跡取りにするつもりだった。

サンヒョンの目にグッと力が入る。「リラックスしましょう、俺とちょっとだけ話しませんか。俺は後から行くから、とりあえずお前ら(里親のところへ)先に行け。」

次に画面に映ったのは殺人事件のニュース。人が乗り換えを待ってる電車の待合室。サンヒョンはいた。そこに力ない表情で、シャツをほんの少し赤くして、ただ、そこに、座っていた。

赤ちゃんは継母の手に渡ることはなかった。

サンヒョンは行方不明になった。

 

「運命の乗り換えをしよう」

それはTVアニメ『輪るピングドラム』(監督:幾原邦彦)電車に仕掛けられた爆弾を止める呪文。というより、物理法則を無視して起こる未来を変える魔法。これはイザナミだ。いや、イザナギだ。どっちでもええわ。

運命が変わる。代償はある。自分の存在が世界から消える。命と引き換えなんて生易しいくない。高倉晶馬は呪文を唱えて皆の記憶からも世界からも消えてしまった。

さて、実は赤ちゃんはマフィア奪還される。出生を呪いながら、あらかじめ用意された立て看板に生きる。そのはずだった。

ヤクザを瞬獄殺したサンヒョン。「生まれてきてくれて、ありがとう」を、かの女から聞いた。闇の中で彼は彼はそこでもう一度命をもらった。運命の赤いリンゴ。それを赤ちゃんに使った。運命の乗り換えをした。

血の運命を断って別の未来を用意した。

「じつは物事は正しい順序で起こらない」ー映画『わたしは最悪。』について

「ただ願うだけで達成できるのなら、誰もが善人なんだけどなあ」

と西洋哲学者エマニュエル・カントは始まりますが、神への否定っぽかった彼の著書は禁書となった。平成生まれの自分にとって言葉に違和感はなく、何なら「トイレにかかってる相田みつをじゃねえの?」と思う。なんとなくボンヤリ考えていた、そのうち映画『わたしは最悪。』の関東で上映が始まった。ところが、栃木県に公開はなかった・・・。

 笑顔でダッシュするポスターに一撃でやられてしまった。これは絶対ヤバイ!走ってる映画は名作と呼ばれる。走るは何か理由がいる。体育の授業でもない。ラクーンシティでもない。大人が日常生活で走ることはまずない。つまり、走らなければならない程追い詰められた理由。そんなの人生の「挫折」しかないじゃない!

行かねば!

 

で、実際は、私は電車に飛び乗らなかった。観たい映画があった。私はさすらわなかった。ドンキのトイレでウンコ踏ん張ってた。その間に関東地方の上映は終わってしまった。願ったまま「あー終わってしまった」と言ってる私は、金属バットをもったカントに撲殺されるだろう。

チクショー!フラれた後こそ本気が出る。鬼に家族を惨殺されたくらいの勢いで女がネットストーカーになるのはそのため。ゆーわけで私もトイレをする時間以外はサイトからサイトへ次々にボソンジャンプしている。ネタバレを微妙に避けながら。青ざめた顔に冷や汗を浮かべながら。

 

監督はこう語っていた。「本作のユリヤは、いつもタイミングを外してしまってその瞬間を自分のものにできていないと思ってしまっています。」 うーむ。やはり観るべきだったか。さらにこんな事も言う。

人生は短く、時間には限りがあり、時には物事が正しい順番で起こらないものです。」

最近友人としゃべってていつもの結論がある。人は「欲しい」ときに限って必ず「足りない」。これを「人生は常にパラドックス問題」と私は呼んでいる。たとえば、若いときは旅行に行きたいが往々にしてお金はない。今は働いてお金を貯めて老後にゆっくり旅行へ行こうと考える。いざ定年になるとお金はあるのに旅行に出る体力も気力もなくなっている。とかな。

私はこの「人生は常にパラドックス問題」を発見してから考え方が変わった。よーし完璧にやれるぞと自信が付いたときにはもうその機会は失ってるものだ。だから未熟なままやるしかない。人生はそういうものだ。これについては色々と今度詳しく書いてみたい。

トリアー監督がいう。物事は正しい順序で起こらない。その通りだと思う。その上でいうと、彼のそれを言い換えれば皆に当たり前に起こることが自分には起こらない。皆に起こらないことが自分にだけ起こる。だから時々ひとは気が狂ってしまうんだろう。